セレンディピティとはー義父の人生ー

我が家の義父について今日は思ったことを書こうと思う。

義父とは

 

義父はつい数年前まである大学で英語を教えていた人で、とても国際的な人。
今は家業の住職をしているが、私たちの結婚式では義父の友人たちに向けて、世界中継をするほど海外に友人も多く英語もペラペラ。
私の友人たちはいきなり英語で話し始めた義父に驚いたと口を揃えて言っていたが、この家に嫁いでから、外国人のお客様がいらっしゃることもあるし、英語で電話がかかってくるということも良くある話だから、今ではもう私は驚かない。

そんな国際的な義父は私が同居を始めて一番長く会話をしている人だと思う。

我が家は義父が食事を作るため、とくにキッチンで一緒になる時間が多い。

そんなとき、私は義父の昔話をよく聞かせてもらうし、政治や宗教の話などいろんな話をする。

義父は私が今まで出会った人の中でも群を抜いて博識で、面白い人生を歩んできた、素晴らしい人だと思っている。

そんな義父が先日前の職場で講演する機会があったので、学生に交じって聴きに行ってきた。

 

講演内容

 

タイトルは『義父の人生観』みたいな感じ。

義父がどういう風に生きて、どういう風に考えているのかを英語ときどき日本語で話すというもの。
今回は学生に話すということで幼少期から30代くらいまでのことが主だったが、ただの義父の人生観ではなくて、ちゃんとメッセージ性がある講演だった。

 

義父は戦後すぐのベビーブームに生まれた一人で、まだまだ日本が発展途上の貧しい時代の経験者でもある。
今のように便利なネット環境があるわけでもなく、田舎であっても車が家に一台あるわけでもない。
電車ではなく汽車が走り、学校では寒い日に焚かれるストーブは電気ではなく薪であり、山持の生徒たちが薪を学校に運んでいたという話も聞いたことがある。
電話も家にない、テレビもない。そんな時代に生まれた義父は、小学生高学年の頃、社会の先生が掲示板に貼ってくれた雑誌の世界中の写真を見て、世界に目を向けるきっかけをもらったそうだ。

その時代『ペンパル』というのが一部の子供たちの中で流行っていたらしい。
それは今でいうメル友みたいなものだけれど、当時は手紙を書いて送って届くのに数週間かかるような時代。
英語教育もなく、自分で調べて独学で学ぶしかない時代に、義父は二人の外国の子供と手紙のやり取りを続けたらしい。

そんな手紙のやり取りの中である日義父は『そちらで学べたらいいな』みたいなことを書いたらしい。
まぁ子供の言うこと。
そういう願望を書いたところで別にこれと言っておかしなことはない。
でも、これがのちに義父の人生を変える出来事になるわけだ。

 

1度目のチャンス

 

ある日中学校に急に義祖母(義父の母)がやってきたらしい。その隣には見ず知らずの外国人。

どうやらその手紙のやり取りをしていた少年の兄が軍人さんで、日本の北海道の基地に来ていたらしくそこからこの片田舎まで軍機と汽車でわざわざ会いに来てくれたらしい。
その軍人さんは義父にスペシャルな話を持ってきてくれたそうだ。

それは義父の留学の話だった。

当時まだまだ日本は戦後であり、海外に行くなんて夢のまた夢の話。
1ドル360円の時代であり、日本から海外に持ち出せる金額もわずかな時代。
そんな時代に義父のペンフレンドが義父の書いた海外で学びたいという言葉を大人に伝え、それが高校の学長まで伝わった。
それで来れるなら受け入れてくれるという話を彼の兄が伝えにやってきたのだ。

けれど、先にも書いたように留学するには大金がかかるがそんなお金がない。
そして、まず日本人にはビザが下りないため長期留学など無理な時代だった。

行けるかもしれないと思った矢先、義父は大きな壁にぶつかった。

結局その時は海外留学は出来なかったものの義父とペンパルの兄である軍人さんとの繋がりは続き、そのことがまた義父の未来へと繋がっていく。

 

2度目のチャンス

 

この軍人さんはアメリカにいる父親に義父のことを話して聞かせたらしい。
義父は今もだが裏表のない、真面目で努力家な人間であった。
たぶん、そういう人柄ということもあって、なんと彼の父親が義父のゴッドファーザーに名前を挙げてくれたのだ。
ゴッドファーザーというとなんだかすごい響きではあるし、日本での意味合いとは違うけれど要は身元引受人、身元保証人ということらしい。

アメリカ人の身元保証人が出来たことにより、義父の海外留学の話は本格化し、義父が高校2年生の頃単身アメリカへと渡ることになった。

アメリカに渡った義父はゴッドファーザーの家で暮らすようになる。
そこから高校へと通い、休みの日にはその家が自営だったのでその手伝いをしお小遣いをもらっていた。
普段は授業についていくためにひたすら勉強をし、いろんなことを吸収していくことに必死だったそうだ。
中でも苦労したのがアメリカ史で、日本と同じように小中学校で学んできた続きになる歴史の授業は、本当に難しく苦戦したそうだ。
でも、そこは義父である。
努力して、優秀な成績で卒業することになる。

さてその後はどうしたかというと、大学を目指すわけだ。
ただしお金がない!!

 

3度目のチャンス

 

ではどうしたのかというと、成績優秀者には奨学金制度が利用できるわけだ。
いくつか申し込んだ大学のうちそれまで暮らしていた家からはだいぶ離れた大学へと進学を決めた義父は、自分で車を運転して大学のある街へと引っ越した。
アメリカの大学は日本の大学とは異なり、入ることは出来てもなかなか卒業することが出来ない厳しい世界。
そんな中奨学金で通っているのでなおさら成績は優秀でなければならない義父は、この時もひたすら勉強をしたらしい。
ちなみに義父の専攻は政治学である。

もちろん、ちゃんと遊ぶことも忘れはしなかった。
高校の時は小さな街でほとんど過ごした義父も大学生になったころ、アメリカのいろんな場所を旅したそうだ。
その時に世界とは広いのだと再認識した。

そして大学4年生の時、一度は日本で就職を考えたらしい。
けれど当時まだ海外の大学出身の日本人を受け入れる日本企業はなかなかなく就職活動は難航した。
そのため義父はこのままアメリカに残り院へ進む道を選ぶ。

ただしまたここでもお金がない!!!

 

4度目のチャンス

 

そんな時、大学院で教授のアシスタントを募集していたそうだ。
それに応募したら合格し、大学院で勉強する傍ら、教授のアシスタントでお金を稼げるといういいバイトを見つけることに成功した。
大学院では友人たちと家を借りて料理の腕を磨いたり、旅行に行ったりと楽しい時間もたくさん過ごしたようだが、アシスタントとして学生たちを連れて学習旅行をしたり引率者としても経験を積んでいた。

けれどそんな楽しい時間も一つのバッドニュースで終わりがやってくる。

なんと義父が従事していた教授が助教授に降格となった。
基本助教授ではアシスタントがつかないため、義父はそこで割のいいバイトを失うことになってしまい、一気に大学院継続の危機に陥ってしまう。

 

5度目のチャンス

 

そんな絶体絶命の義父だが、ここでまたしてもグッドニュースがやってくる。
この大学の学長が新たに始めようとしていた事業の一つに『国際法を学ぶためにヨーロッパに学生を連れていく』というものがあった。
以前のアシスタントで学生の引率を経験していた義父は、政治学を学んでいたことと、多少フランス語とドイツ語も喋れたこともありその役目にぴったりだったらしい。
そしてその事業の中心人物である大学教授のアシスタントという職を得ることができた。

義父はこの大学教授との出会いがとても大きなものだと思っている。
その先生は昨年亡くなられたが、私も何度も話には聞いていたし、主人も会ったことがある人。
ポーランド出身の国際法の権威である先生は義父曰くかなり聡明であり、気難しい人ではあったが義父にとっては良き師であり、良き友人だったそうだ。
昨年亡くなる前に会えたのが義父にとっても、そして先生にとっても本当に幸いだった。

そんな素晴らしい恩師とともに義父が任されたプロジェクトはヨーロッパにある国連施設で国際法を学ぶというもので実は現在も続いているらしい。

 

その後

 

義父はこのプロジェクトの最中、日本の国連事務所の方から就職先に国連を勧められたそうだ。
これで将来国連で働くことになると思っていた矢先、日本から思わぬ連絡がやってきた。

それは義父の父が胃がんで先が長くないということだった。

今まで好きに生きてきた義父は、ここで帰らなければ親孝行せずに終わってしまうと思ったそうで、修士論文のみを残した状態でアメリカを離れ日本に帰国。

以後日本で生きることとなる。

日本に帰国後、話に聞いていたより義父の父は元気であり、結局96歳まで長生きをした(笑)
そんな予想していた状況とは異なったものの、いずれ家業のお寺を継ぐことになるためそのまま日本で就職活動を始め、ちょうど社会科の教員を募集していた大学の講師として働き始める。

そしてそれからその大学が学部を増設するという話になり、当時まだ珍しかった『外国学部』を作るため義父が中心となって動き始めた。

現在もこの大学には外国学部があるが、義父が作ったころとは多少状況も異なってきている。
当時は外国学部は珍しく、応募すればたくさんの優秀な人材が集まったらしい。
面接はすべて英語で行われる徹底ぶり。

在学生の何人かはカナダやアメリカの学校へ交換留学したり、向こうの生徒を受け入れたり、また夏休みを利用した長期留学も行っており、義父は引率者として何度もカナダやアメリカへと渡っていた。
そして定年を迎え、本職である住職を今はしている。

義父の講演ではここまで話していたと思う。
そして本題。
この話で義父は何が言いたかったのか。

 

義父が伝えたかったこととは

 

義父は公演を始めるとき、最期の5分間だけ聞いてもらえればいいと話していた。

ここまでは義父にとって前座である。

ここからが学生さんに伝えたかったことである。

義父の人生を見ていくと、多くの人はすごい!!面白い!!やっぱり普通とは違う!!
そう感じる人が多い。
かくいう私もそう思う一人だ。

だけど、義父はただのラッキーな人なのか?

義父が最後の5分言いたかったのは『セレンディピティ』とは何かということ。

義父はたくさんのラッキーに恵まれ、最後は名誉教授とまでなった人である。
でもただただラッキーばかりがあったわけではなくて、アンラッキーもたくさんあった。

義父曰くラッキーもアンラッキーも同じ数だけあるのだという。
いいことも悪いことも同じ数だけあるけれど、それをそう感じない人も多い。

ではなぜ義父がラッキーに見えるのか。

それは義父がチャンスが来た時にちゃんと手を挙げられた人だったからだということ。
これは直接的な手を挙げるとは違う。

何かを始めるとき、誰か適した人がいないかな??と誰かが考えたとき、ぱっと頭に浮かんだのが義父で、義父がそれにうまく乗れた人だったのだ。
決して宝くじが当たった、ラッキーのようなものではなくて、もともと義父という人が持っていた能力がそのタイミングで選ばれただけなのだ。

義父の友人にベトナム戦争の時、兵役に就いた人がいた。
当時ベトナムに行けば半分の人が死んでしまう時代で、義父の友人もその運命を辿る一人だったかもしれない。
けれど彼は学生の頃タイピングがとても上手だった。

そのため前線に送られることはなく、後方にて事務方として従事することになり、現在もお元気だ。

これは芸が身を助けた一つの出来事であるけれど、授業でタイピングを頑張ってやっていたころ、まさかそれが自分の人生を助けることになるなんて彼は考えていなかっただろう。
ただ一つ一つのことをちゃんとしていたからたまたまそれが生きた。
けれどそれがどこで生きてくるのかは誰にもわからない。
でも、もしかしたらそういう毎日の一つ一つの積み重ねが自分の人生にやってくるチャンスを掴むために必要なことじゃないだろうか。

人が出来ることなんてそんなにたくさんない。
一日一日をきちんとしていく。今しなきゃいけないことをする。

その当たり前がいつかやってくるチャンスを手にするセレンディピティなんじゃないか。

だから学生さんには今出来ることをしっかりとやってほしい。
無意味に思えても、今はまったく関係ないことと思えても、それが生きてくることがあるかもしれない。

最後の5分(結構オーバーしてたけど)で義父はそう締めくくった。
上記は完全に私の頭で咀嚼した話ではあります…。

 

最後に

 

この講演を聴き、毎日の一つ一つ今出来ることをしっかりやろう、そしてそれがいつか何かのタイミングで生きてくるというメッセージがあるんだなと私は感じました。

さて、学生さんにはきちんとこの意味が伝わったでしょうか。
私は分かりやすかったですけど、ちょっと大人向けだったかなと思いました。

でも人の本質、人が幸せであるための本質。

本当に一日一日出来ることをするという当たり前のことがなんて難しいんだろうと思います。
だけどそれが何かに繋がっていく。

学生さんにも義父の思いが伝わっていたらいいなと思います。

 


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